2023/05/21 Sun
FUSEKIDO Ohyama wrote
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2023年3月12日上三川町で活動していたハンバーガーキッチンカー楓赤堂(当ブログ運営のFUSEKIDOが活動していたキッチンカー)は最後のイベント出店を終えて活動を終えた。
活動を終了した理由は単純にFUSEKIDOのおおやまが転勤により、栃木を離れなければならなくなり、転居先での活動は厳しいと判断したからである。
普段はメーカーのエンジニアとして平日はフル稼働だ。多くのサラリーマンが、週末はゴルフや買い物、温泉、旅行に費やす中、なぜ敢えてキッチンカーを始めたのか。
今回は2年弱に及ぶキッチンカー活動の備忘録として、記事化するとともに、これからキッチンカーをはじめる方や単純なノンフィクション読み物として楽しんでもらえれば幸いだ。
<キッチンカー運営を決断するまでの過程> ~学生時代の経験によるマインドセットの醸成編_1~
話は15年前にさかのぼる、私は中学時代は水泳に打ち込み、高校時代は水泳部がなかったため、皆が0から始められ、技量の差異がないと思われたバドミントン部に入部した。
ここでの出会いは後の人生に関わる大変貴重なものであるが、キッチンカー運営には関わらない。バドミントンというスポーツにこそ関係する。バドミントンはダブルスであっても基本は個人プレーの競技だ。相手が拾えなさそうなエリアにいかにシャトルを飛ばすかのスポーツである。この個人プレーの競技は、水泳と同等であるため、特別に違和感を覚えなかったのは、高校2年生の球技祭までである。
高2の球技祭ではクラス内でバスケ、バレー、バドミントン、卓球の競技を選択して試合に挑む。私のクラスは理系クラスという学内でも少数派ということもあり、異様な連帯感があり、かつ皆「理系だけどスポーツもやっちゃうよ?」感で士気が高い。
特にバレーボールはクラスのテニス部や、バスケ部が参加する注目度の高い競技で、私も少しのバレーボール経験があったので参加した。
授業の合間の10分休憩でさえも中庭にでた。みんなでバレーの練習をしてチームの連帯感も生まれたが、最終的には教員チームというドリームチームに敗北することになったのだが、チームで一つのことを成し遂げるために一丸となって取り組み、一人では成しえないことに挑戦することの楽しさを学ぶには充分であった。
また、秋の文化祭では高校2年生は飲食販売ができないため、出し物をすることになる。結局どういう流れでそうなったのか記憶がないが、ドラマを制作することになった。当時私は登下校の電車の中でネタブログを掲載していて、同級生に公開していた。その流れで脚本を担当することになる。脚本と言っても話の流れをつくるのが大きな仕事であり、撮影のためには絵コンテの作成や編集作業、セリフ作成など仕事は山のようにあったが、各々得意分野を持つクラスメイトの力を借りて一つの作品に仕上がった。一人のクラスメイトの父親がシステム関連の仕事をされているとのことで、当時ではなかなかレアな、DVDにドラマ映像を焼いてくれて、その映像は今も残っている。
これら2例は、いまでいうところのベンチャー企業とやっていることは同じと言える。全くの0の状態からみんなで協力して、なにかしらの成果を得る。高校のときに経験したチームプレイというのは小規模で、リターンも金銭が伴わない。ただし0から始めて協力して成果を出す楽しさを経験するのには十分であった。
しかし大人になって、企業に属してみるとどうだろう。自分は会社の収益を上げるためのチームメイトであるのにも関わらず、あの頃感じた連帯感は感じない。年をとって、物事を新鮮にとらえられなくなったからなのだろうか。
つづく。